彼が「あやちゃんをぎゅってした時、いい匂いがした」と言った。あの日の帰り際、彼に抱き寄せられたことを思い返した。「ちょっとこっちに来て」と微笑む彼を不思議に思い、一歩、二歩と彼に近づくと、自分の「わっ」という驚きの声と共に、視界から彼の姿が消えた。私は彼に、抱きしめられていた。九センチのヒールを履いても、抱きしめられたときに私の口は彼の肩に及ばなかった。近づけたような気がしていた。高いヒールを履けば、彼と同じ世界が見えると思った。彼と同じ世界を見たいと思った。彼からは、水族館でも、喫茶店でも時折感じていた、あまくてやさしい匂いがした。私は彼の使う香水の匂いを知っているけれど、私が記憶する匂いよりも遥かにあまくやさしく、私の胸を締め付ける匂いだった。