待ち合わせは、品川駅の新幹線乗り場前だった。さほど緊張もせず、私は乗り場前を少しうろついた。反対側の南口に黒髪で遠めでも「ああ、イケメンなんだろうな」と感じる人がいた。それが、彼との出会いだった。

 暫く北口前で立っていると彼から連絡が来た。「みっけ」と。その言葉を見て、多分あの遠目イケメンだろうと確信した。歩いている時、一度視線が交わったからかもしれない。いくら待っても彼が歩き出そうとしないので、願掛けのつもりではちみつりんご味ののど飴を口に放り込み、私は人混みをすり抜けて彼の目の前で足を止めた。さっきの余裕はどこへやら、私の緊張はピークに達し、吐きそうなほど気持ちが悪かった。

 彼は、やっぱり格好良かった。勿論声も格好良かったけれど、昨日短く切ったという黒髪も、「こんなダサい恰好でごめんな」と言っている服装も、私を見つめる瞳も、すべてが格好良かった。

 アトレ品川の四階にあるカフェでフルーツボウルを食べ、カフェラテを飲んだ。彼は「顔三割、性格七割」らしいのだが、注文を終えるなり「三割いったわ。いや五割!」と笑った。恥ずかしくて、彼の目をまともに見れなかった。彼はよく電話で私を「プリンセス」と呼ぶのだが、目の前で呼ばれると流石に動揺する。こんな男が本当にいるのか、世の女性たちは何故この男を放っておくのだ?と思った。彼がお手洗いから帰ってきた後に私を促してくれて、帰ってきた時には会計は済ませていた。エスカレーターに乗る時も私を先に乗せてくれたり、さすがホテルマンは違うなと感心した。お金を出してくれたことに礼を言うと、彼は「顔パスって言えばよかったわ」と笑った。

 アクアパークでの私と彼との距離感、今思うとむず痒い。何度も触れる腕が熱かった。彼のいる方にバッグは持たず、よろめいた時に少し寄りかかるも、彼の左手に触れる勇気は出なかった。私はもっとぐいぐい行ける子だった気がするのだけれど、どうしてしまったのだろう。彼は本当に水族館を楽しいと思っているのだろうか、私と実際に会って嫌な気持ちになっていないだろうか、触れたい、でも嫌われたくない……彼はしばしば私を見つめ、「(魚が)綺麗だね」と言う私の耳元で「あやちゃんには劣るな」と言った。笑って目を逸らすことしか出来なかった。

 「もうちょっと一緒にいたい」と言い入った喫茶店で、彼はアイスクリーム付きのアップルパイ、私はホットチェリーパイを食べた。彼は私の手を握り、「触りたかった」と言った。私は何も言えなかった。クリスマスの次の日に彼が言った「あやちゃんと一緒になりたい」の真意を問い詰めたが、「次もっと長く居れる時に話すから。指切り」と小指を差し出した。「そんなに悲しい顔をしないで」と笑った。幸せすぎて、居心地が良すぎてずっと微笑んでいる私に彼は「なんでずっとにやけてんの」と笑った。にやけているのではない、微笑んでいるのだ。

 ほぼ満員の山手線に揺られた。真顔で椅子に座る私を見て、彼は指でキツネを作って見せた。外国人に道を尋ねられた彼は流暢な英語を話し、渋谷駅の二階でスクランブル交差点とハチ公を眺め、彼の「渋谷嫌だ」という嘆きに頷き、田園都市線三軒茶屋へと向かった。終わりの時間が近づいていた。三軒茶屋駅のマップの前で、彼は私の頬に、髪の毛越しにキスをした。私はこのまま一緒に朝を迎えたいとすら思っていた。地上に出てファミリーマートハーゲンダッツの新作を確認し終えると、彼は友達に連絡を取った。

 もう終わりの時間だ。私は周りに人がいないのを確認してすぐ、彼の右頬にキスをした。照れている彼が愛おしくて堪らなかった。マップの前で彼は私に手招きをして、優しく抱きしめた。突然のことで記憶が曖昧なのだが、私の耳元で彼は別れを告げた。「ああ、好きだ」そう思った。

 彼に手を振り、階段を下りながら、私は目に水が溜まっていくのを感じた。そして少しずつ、彼との時間は私の夢になっていった。彼は泡のように消えた。五分前まで後ろにいる私を横目で確認しながら歩いていた彼はもういなかった。たったの五分前なのに。今日一日のことは私が見ている夢なのかもしれなかった。私の手を握る細い指も、私を見つめる二重の瞳も、ふとした時に感じる優しくて甘い香りも、いたずらっぽく笑う口元も、すべてが、もしかしたら夢なのかもしれなかった。久しぶりに高いヒールを履いたせいでじんじんと痛む足の裏だけが、これは現実なのだと教えてくれた。

 もっと彼にくっつけばよかった。もっと彼の顔を見て笑えば良かった。もっと、もっと彼と見つめあえば良かった。恥ずかしいあまり顔を背けていたけれど、その瞬間の私はその時間が永遠に続かないのだという実感が湧いていなかった。ずっとこのまま、彼の隣で笑って、一緒にご飯を食べて、あーんって分け合えると思っていたのだった。

 彼は今何を思っているのだろうか。私は無気力のまま真っ暗な玄関にしゃがみ込んだあと、やけになって夜の二十二時にハヤシライスを食べ、寒い部屋でキーボードを打っている。